午後の日溜りのなか、甘からぬ酒でも・・・トタンがセンベイ食べて・・・だったっけ馬嘶くか・・・嘶くまい 中也にそんな詩があったけど、あの歴史的旧家の大きな雨戸が、通りもしない窓を抜けて 隣の家のトタン屋根の上に寝ていたのはどんな日の事だったのかしらんと、日溜りのなか、考えた。あれはどういう奇蹟か、ちっとも話しては下さらなかったから、時折思い出してしまう。 中也の詩は春のなんとかいう詩だったと思うのだけど、犀星にも「はる」という詩があって、あれは本当に好きだった。 「おれが詩をいつも書いていると、永遠がやって」くるのだけど、それはとても素早い奴で、掴まえられないのだ。 十いくつかの頃、本を読んでると、時折、机の前を永遠が通るのを感じて、その時はハッとして額をあげるだけだったのだけど、その数年後にこの詩をみつけて、机の前で永遠を掴まえる真似をしてみたりした事があったのだった。 私が唯一残そうと思ってる一枚の紙の一番最後にその「永遠」は書いた。 「それを掴まえられるところに私は来たでしょうか?それはまだまだ遠いでしょうか?」なんて。 あれからでも十年はたってしまった。 子供の頃は綺麗な「志」みたいなものが自分の中にあったような気がしていたけれど、永遠がそこにあるって事は、志もそこに内包されちゃってるわけだから・・・。 ま、いいか~。 暖かさが笑みを運んでくる午後、山を眺める。 こころざしおとろえし日は いかにせましな 手にふるき筆をとりもち あたらしき紙をくりのべ とおき日のうたのひとふし 情感のうせしなきがら したためつかつは踊しつ かかる日の日のくるるまで こころざしおとろえし日は いかにせましな 冬の日の黄なるやちまた つつましく人住む小路 ゆきゆきてふと海を見つ 波のこえひびかう卓に 甘からぬ酒をふくみつ かかる日の日のくるるまで -三好達治- ================================= 知らない人のブログに書き込むのは初めてです。あなたの文章に触れて、言葉を残したい衝動に駆られ今こうして書き込んでいます。 「机の前を永遠が通る」って感覚、そしてそれを掴まえようとする感覚、僕もよくわかります。 実は、今がそうでした。ふとやってきた、あの頃と同じ感覚を逃すまいと、深夜にも関わらずネットを立ち上げて、「中也」とか、閃いたそんな言葉を検索しているうちにこのページにたどり着きました。 そしてあの頃からずいぶんと遠くきてしまった自分を同じく思っては、僕はパソコンの前で苦笑いを浮かべています。それまで知らなかった三好達治の詩が、苦笑いをさほど苦くないものにやわらげてくれました。 最近、よく口の中で転がす言葉があります。「たまゆら」と「とことわ」です。「一瞬」と「永遠」ですね。辺見庸さんの著書で出会いました。 この美しい響きを反芻しながら、私が求める「永遠」は「一瞬」の中にあるのだと思い至りました。 まだ、永遠を求めていますか? その紙に何かが書き加えられることはもうないのでしょうか? 突然の書き込み、失礼いたしました。 お子様がいらっしゃるとのこと。健やかな日々を過ごされますことを。 通りすがりでした。(2008.03.05 03:43:10) ================================== 風来坊1983さん >「机の前を永遠が通る」って感覚、そしてそれを掴。 >最近、よく口の中で転がす言葉があります。「たまゆら」と「とことわ」です。「一瞬」と「永遠」ですね。辺見庸さんの著書で出会いました。 >この美しい響きを反芻しながら、私が求める「永遠」は「一瞬」の中にあるのだと思い至りました。 >まだ、永遠を求めていますか? その紙に何かが書き加えられることはもうないのでしょうか? > 「一瞬(たまゆら)」と「永遠(ところわ)」ですか、いいですね。 美しい日本の言葉、その感覚を、年と共になおいっそう愛しみます。 私が残すその一枚、正しくは二枚ですが、そこにもう書き加える事は何もありません。その二枚は私が小学校五年の時から二十過ぎまで書いていた日記、作曲帳、自詩、他詩、読書帳、殴り書きなどの百冊以上ものノートを全部捨てたあと、そのノート達の総括として書き残したものです。本来の私が本来的に生きた証で、主人と子供にあてた短い遺書と共にそれだけが残ることになります。 第三の人生には文字は刻まず、何かこの大地に埋もれてやがて私が死んだあと花開く事をしたいと思っているのですが、どうなりますでしょう。。。 私はその昔、「一瞬」の「永遠」を誰かと一緒に見ていたかったものですから、この書き込みは本当に嬉しかったです。有難う御座いました。 あなたが、あなたの生きる風景の中に「永遠」を見つけ、ふと立ち止まる日々でありますように・・・。 (2008.03.05 07:53:37) |